アメリカでポスドク|いきなりの英会話|日本と米のアカデミアの違い

転職ノウハウ・コツ・裏技集

研究生活の始まり

私の研究生活の始まりは大学4年。卒業研究の配属でとある研究所の研究室に属することになりました。シニア、ポスドクの研究員が10名、マスターと学部の学生が10名という大所帯。大学3年間の講義漬けの生活から脱出し、高校時代からあこがれていた本物の研究というものにようやく触れることができました。様々な大学の様々な学部からユニークな学生らと一緒に世界最先端の研究を一流の研究者から学ぶことができ、私にとって大変貴重な時間となりました。また、当時在籍していた研究室の教授もたいへん器の大きい方でした。夜遅くまで実験をやっていると、「そんなに頑張らずに、こっちにきて一緒にビールを飲みなさい」、「このカードでお酒でも飲んできなさい」と若い学生にとっては神様のような存在でした。このような教授のもと、学部、マスターと3年間、のびのびと育てていただきました。

就職氷河期突入

ちょうど当時はバブル崩壊後の就職氷河期。研究室では大変有意義な時間を過ごさせていただいていたのですが、就職活動が始まってからはその生活が一変しました。というのも、研究機関の先生方というのは民間企業への就職のつながりがなく、私や同期の学生らの就職活動は大変難航しました。当時はリクルートから送られてくる電話帳のようなはがきの冊子を使って、一通一通手書きで情報を書き込み、企業へ送って企業説明会や面談の機会を得るというのが一般的でした。ところが何100通と書いたところで企業からほとんど返事はなく、ようやくたどり着いた田舎の町工場の会社訪問も、次の採用面接は断られたこともありました。その工場の採用担当の方は、「なぜ今年は君たちのような大卒の学生がたくさん応募してくるの?」と私に聞いてきました。当時を振り返ると、今のようにインターネットはなく、就職部や本屋にいって企業情報をかき集めたり、合同の会社説明会に参加したりして、学生なりに企業を必死に探していました。ただアナログ的な方法でも、レスポンスのいい企業というのはどうしても学生が集中していまうのだと思います。その工場も学生に対する対応がよいとうわさで、お昼にかつ丼、あと交通費20000円を支給してくれました。田舎に帰ってその工場の前を通るたびに、いまだにお昼にいただいたかつ丼を思い出します。
結局、就職活動はみごと惨敗しました。研究室の同期がみなそろってゲーム好きだったこともあり、気晴らしにゲーム機でも買ったらどうだ?とすすめられました。そこで交通費20000円をつかってセガサターンを購入しました。あまりゲームをしてこなかった私ですが、このセガサターンは大変良い気分転換になりました。ただ、当時のセガサターンの経験が20年以上のちに役に立つとは、当時は全く予想だにしませんでした。
その後、当時師匠として私を指導してくれた研究員の方にすすめられたこともあり、そのまま進学してドクター取得を目指すことになりました。

博士課程の生活

ドクターコースの学生になってしばらくすると研究室が二つにわかれることになりました。通常、学生はそのまま居残り組に配属されるのですが、私はたまたま専攻していた研究分野が一致いたということもあって、約600キロ離れた新しい研究所に移ることになりました。ある朝、大型トラックがアパートの前に迎えに来て、研究機材と家財道具とともにに拉致されました。日本国内で600キロもの異動ははじめてだったのですが、これだけ距離が離れるとと、話す言葉や文化、食べるものの味もすっかり変わりました。ただ、現地採用のスタッフはどの方も人柄が明るく、よそ者の私たちを温かく迎えてくれました。当時の研究所では最年少だった私ですが、年齢に関係なくたくさんの友人ができ、たった2年間ですが、大変密度の濃い2年間となりました。
研究生活でも密度の濃い研究ができ、最終的には3本のfirst authorの論文を発表しました。そして、学位も無事取得することができましたが、新しい研究所で指導していただいた新しいボスには大変厳しい指導を受けました。当時はこれが学位取得のための試練なんだろうと思っていましたが、今考えるとアカハラのオンパレードでした。師匠にあたる直属の研究員の指導方針と新ボスの指導方針に食い違いが多々あり、それがもととなって新ボスを怒らせるということが頻発しました。異動前にお世話になった教授に相談すると、新ボスはそれがまた気に入らない様子。黙ってひたすら我慢していると、なんで言わないんだとまた叱られる。当時は何をやっても裏目裏目にでてしまったことをよく覚えています。実は卒業後の検査で胃潰瘍が見つかりました。それまでストレスとは縁がありませんでしたが、ストレスで本当に体調を崩すことを身をもって学びました。人と人との相性というのは、どの社会でも非常に大切ですね。

ちょっとしたきっかけでアメリカの大学へ。

人と人の縁というのは実に不思議で、ちょっとしたことから話が大きく進展することがあります。
その日は、アメリカのライバルのラボから若いアメリカ人研究員が来日して研究室でセミナーを行いました。
夜にはラボメンバーのみんなで居酒屋で接待することになっていました。
ところが私は例によって新ボスに説教され、居残りで実験をすることになりました。
その晩の接待の席でなぜか私の話題になったそうです。
後輩たちが片言の英語で「(サッカーの)日本代表として呼ばれて、アメリカのサッカーワールドカップに出場予定(当時の私の口癖)の学生がいるから、アメリカへ呼んでやってくれ。」と冗談を言ったんだそうです。
酔っぱらった若い学生の言ったことなので、ちゃんと通じているのかわからないし、アメリカ人はそもそもサッカーなんぞ興味がないので聞き流してもらえると思っていました。
ところがそのアメリカ人が帰国してからしばらくすると「アメリカのボスに話をしておいたからアメリカに来る気はないか?」とのメールが本当に届きました。

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最初は冗談かと思ったのですが、その後とんとん拍子で話がすすみ、結局卒業と同時に渡米することが決まりました。
ボスに叱られて留守だったためにこんな話題となり、そのことがきっかけで私の渡米が現実になるとは本当に人生はわからないものだと思いました。
ただ、面白くなかったのが日本の新ボス。
ライバルのラボに行くことに強く反対して、実際、別のラボに行くように直接すすめられたこともありました。
ただ、師匠の研究員からは(ここでも新ボスと食い違っていました)「こうやって話が進むときにはその話に乗ったほうがよい、とてもいい話ではないか」と言ってくれて、それが渡米する私の後押しとなりました。
ただ、渡米するにあたり、仲間から「そもそも英語は大丈夫?」とずいぶんと心配されました。
博士課程では英語論文を書き上げなければならず、
実験英語のボキャブラリーはずいぶんと増えていましたが、
英会話となると心もとないのが正直なところでした。
渡米直前は地方の研究機関にいたため、英会話スクールというものもありませんでしたし、オンラインというものはまだ存在しない時代でした。
渡米直前にはやはりネイティブ英語に触れる機会をもっと作っておけばよかったと正直後悔しました。

アメリカ生活の始まり

ひょんなきっかけでアメリカで生活することになりました。一般企業の駐在員とは違い、飛行機からビザ申請、住居探しなどほぼすべての手続きを私一人で行いました。卒業直前になると博士論文、新ボスからのプレッシャー、そして渡米準備と大変あわただしい年度末を経てようやく渡米する日を迎えました。その日は後輩らが空港まで見送りに来てくれました。ようやく新ボスから解放されるという気持ち、後輩や仲間たちと離れなければいけないというさみしい気持ち、これからアメリカでどうなるんだろうという不安感、どうにでもなれという投げやりな気分と、人生で初めてのカオスな心境だったのをよく覚えています。あの心境に耐えて渡米したこと、私も当時は若くメンタルも強かったんだろうと思います。

アメリカ生活での出会い

渡米する飛行機のなかで日本人の老夫婦と知り合いになりました。その旦那さんは大切そうに釣り竿を抱えていました。「君はアメリカへ何しにゆくんだい?」と声をかけてくれました。大学で働くんだ、家もきまっていないし、どうなるかわからない、、、なんて話をしたところ、「今度、オレゴンの私の家に遊びに来なさい。釣りでもしよう。」と紙に住所を書いて渡してくれました。アメリカ在住者の最初の知り合いが行きの飛行機内でできました。もともと釣り好きだったことあり、オレゴンには惹かれるものがありましたが、結局訪問はしませんでした。そのかわりにその年の新年に日本風の年賀状をお送りしたことを覚えています。
空港に到着するとアメリカのボスがトヨタの車で迎えにきてくれました。車の中で、「ここに来たら真面目に仕事をしていてはいけないよ。サーフィンをしなさい。」と言ってくれました。その言葉通り、私はサッカー好きだったので、現地のグランドでやっている草サッカーに混ぜてもらったり、日本人のサッカーリーグに参加しているチームに加入したりと、この2年間は正直サッカー留学といったほうがよかったかもしれません。そういえば、サッカーで骨折をして大学の病院につれていってもらったこともありました。

話が前後しますが、私のアメリカ生活は決して順調にスタートしたわけではありませんでした。アメリカに到着して2週間はモーテルに泊まってその間に住居を探すことになっていました。ところが大学内にある住居は3~4年先まで予約が入っているし、周辺のアパートを歩いて探し、その事務所にいって聞いてみてもやはり空きがない。日本みたいな不動産屋があるわけでもなく、本当に途方に暮れていました。
実はここでも運命的な出会いがありました。たまたまモーテルの向かいに日本食のファーストフード店があったので試しに入ってみることにしました。そこは若い日本人夫婦が経営していて、モーテルに滞在している間はほぼ毎日そこで晩御飯を食べることにしました。この二人にはその後も本当にお世話になりっぱなしでした。部屋を見つけてからも2~3日に一度はこの店に来て話し相手になってもらったり、車で一時間ほどの大きな日系スーパーへ炊飯器を買いについて行ってくれたこともありました。テレビがまだないころにはテレビを貸してくれました。自宅に呼ばれて、ワインを何本も飲み干したこともありました。最後にアメリカを離れるときには、サッカーメンバーと一緒にこの店で追いコンをしてくれました。私がこの店のホームページを作ってあげたこともありました。私のアメリカ生活を語るうえでこのご夫婦はなくてはならない存在となりました。
その店の奥さんから「歩いて30分ほどのところに日系のスーパーがあるから行ってみたら?そこに掲示板にルームメイトの募集や中古品の情報がよく出るから」とアドバイスをいただきました。そこで早速行ってみたところ、ほんとうに驚きました。店の中はほぼ”日本”でした。日本語の無料の新聞があったり、お弁当や日本風のパン、納豆からカレールー、細切れの肉、刺身、ペットボトル、お菓子、CD、本、レンタルビデオと日本のスーパーとなんらかわりない品物が陳列されていました。その店の掲示板には、車を譲ります、ベットを譲ります、テレビを譲ります、といった情報がびっしり張られていて、現地日本人の情報交換の中心という感じでした。残念ながら、ルームメイト募集という情報は見当たらなかったため、私はほぼ毎日そのスーパーへ通い、掲示板をチェックすることにしました。

その日も日系スーパーにいって掲示板の前に立っていました。特に新しい情報はなく途方に暮れていたところ、中年の日本人のおじさんに声をかけられました。「君は何か探しているの?」「実は大学で働くために、つい先日、日本から来たのですが、まだ住むところが見つけられなくて」というと、「じゃあ、私のうちに来なさい」といって自宅へ連れて行ってくれました。そこは高級住宅街にある立派な家でした。話を聞くと、日本の某有名企業のアメリカ支店長さんでした。まもなく日本に帰国するそうで、家財を引き取ってくれる人を探していたそうです。そうこうしているうちに、日本人の女性がその家にやってきました。現地で不動産屋を経営している方でした。いくつか空き部屋情報を持ってきてくれて、あれだけ苦労して見つけられなかった住まいがその場で簡単に決まってしまいました。また、家財も支店長さん宅で使用していたものを丸ごと格安で譲っていただき、新居まで運んでいただきました。
日本食ファストフード店の夫婦、アメリカ支店長さんとの偶然(私は必然と思いたい)のすばらしい出会いと彼らの支えによって私のアメリカ生活はスタートすることができました。

 

アメリカのラボの様子

当時はまだ若くパワーがあったので、昼間アメリカの仕事をしてから例の日本食屋さんに晩御飯を食べに行って、それからラボに帰って夜な夜な日本の仕事の続きや論文書きをしていました。サマータイムでは日没が8時過ぎになるので、夕方は現地の人たちとサッカーをしたり、ローラーブレードやランニングをしていました。これだけ体を動かしていればアドレナリンも十分に出ていただろうし、実は日本のボスから痛烈なメール攻撃はありましたが、心穏やかに過ごせたのだと思います。

私のいたアメリカのラボはインド人、中国人、イギリス人、エストニア人、日系アメリカ人、ロシア人と多国籍集団でした。日本人の私は大変かわいがってもらいました。片言の英語が子供っぽくみられたのでしょう。
私の滞在していた地域はアジア系が多く、白人がマイノリティーでした。また、治安が全米一良いと言われていて、日本人同士5~6人で集まっていると不審がられるほどでした。
実は滞在中に全米多発テロが起こったのですが、特段不安を感じることはありませんでした。テロの朝も普通におじさんが公園の芝を刈っていて、ラボメンバーも普通に出勤してきました。まるで他国の出来事のような感じがしていました。

渡米して間もないころは、まだ日本で集めたデータの解析が終わっていませんでした。リモートで日本のサーバにアクセスして計算したり、アメリカのラボのサーバを借りて計算をさせてもらいました。時間のかかる作業は、皆が帰宅した後にラボに戻って、11時頃まで作業をさせてもらいました。おかげで、論文にもまとめ上げることができました。ラボの同僚たちは、私の働きぶりに驚いていました。そこまで研究に没頭する、というのは、たとえ博士課程の学生さんでもありませんでした。

私は渡米するまでは、アメリカは個人主義だと思っていました。確かにラボ内でプライベートの付き合いというものはほとんどありませんでした。これは様々な国の方がいて、宗教や習慣の違いによるトラブルを回避するための知恵、だと現地の方から教えていただきました。ところが、研究についてはお互いにサポートして、力をあわせて研究をすすめていました。スタッフ同士でお互いの成果を議論したり、技術的なサポートは本当に積極的にしてくれました。私も、自分の研究そっちのけで、仲間の研究のサポートをしました。数年間、解析段階で解が見つからず困っていたデータが二つあったのですが、私が解をみつけることができ、紙上発表につなげることができました。2年間という短い期間でしたが、いくつもの論文に名前が入り、First authorの論文も出すことができました。そのうちラボでは「hero」と呼ばれるようになりました。ちなみに地元のサッカー仲間からは「sushi」と呼ばれていました。

ぶっつけ本番の英語

学生時代にインド人研究者と仕事をしていたこともあって、なんとなく言っていることは理解できるようにはなっていました。ラボにもインド人が二人いたので、彼らの英語は本当に聞き取りやすかったですね。直属の上司は中国人だったので、どうしても単語がわからないときには漢字を書いたことがありました。

アメリカ生活で最後まで難しかったのが、ファーストフード。店員さんは早口で、何を言っているのかわからない。特にケチャップが全く聞き取れませんでした。プレートを見て、商品のナンバーだけ伝えて、あとは全部イエス。手元に商品が届くまで何ができてくるかドキドキでした。

赴任中は地元のサッカーによく混ぜてもらいました。本当に何を言っているのかわからない。それもそのはず。ほとんどがメキシコ人で話しているのがスパニッシュでした。今考えるとスパニッシュも勉強すればよかったと。サッカーを通じて仲間が結構できたので、スパニッシュでやりとりできればもっと楽しめたような気がします。サッカーも日本とは全く違いました。ボールをもったらまずはドリブル。基本パスはだしません。ボールが欲しかったら、敵でも見方でも奪い取れ、という感じでした。なので、パス回しを好む、ディフェンスもがんばる日本人は人気がありました。チーム分けになると、こっちにこいと引っ張られるようになりました。

あと難しかったのが電話。ラボの固定電話の近くの席だったこともあり、かかってくる電話を受けることも多くありました。誰にかかってきたのか、何を言っているのか、全然わかりません。ところが、だんだんと相手の声を覚えてきて、声を聴いただけで誰にかかってきたのかわかるようになりました。

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アメリカと日本のアカデミアの違い

アメリカでは博士や論文の価値が日本より高く評価してもらえ、社会から尊敬のまなざしで見てもらえます。近所の子供と話をしていたときに、「##大学で働いている博士なんだ」と話したら、「オーマイゴッド!」と頭を抱えていました。Universityに通っている学生も地域の方からすごく尊敬されていました。ましてやそこで働いている研究者、となると、どの方も本当にびっくりしていました。また、企業も博士に対する評価は高く、アカデミアから企業へ就職するケースも多くみられました。私もベンチャー企業から誘いを受けました。給与は年棒約1200万円。ちょっと驚きました。それだけアメリカでは博士を評価してもらえます。アカデミアも、ヒット級の論文が一本あるだけでも十分に食べていくことができます(現在はわかりませんが)。また、シニアの研究者が研究を続けていける仕組みがあって、必ずしもラボヘッドにならなくても、研究を続けていけます。ちょっとHPをみたところ、当時のシニアの研究員は全員同じラボに残っていました。それだけ雇用が安定しているということですね。

 

日本の場合、博士を持っていても任期のある仕事ばかりで3~5年おきに退職、職探しをしなけければならず、定年のあるパーマネント職といった正社員的な職にはなかなか就くことができません。もしそのような職につく場合にはホームラン級の論文を何本も持っていないと難しくなります。恐らく、そのことに気が付いていたら、日本に帰国することは考えなかったような気がします。私は単身でアメリカに渡ったこともあり、プライベートではアメリカ生活を心の底から楽しめるほど余裕はありませんでした。やはり、日本には帰りたいという気持ちが常にありました。私の在籍していた大学には日本人の研究者は大勢いましたが、ほとんどが結婚して家族で来ている方々ばかりで、家族でアメリカ生活を楽しんでいました。奥様たちに、「なんで一人でくるの?もったいない」なんてよく言われました。本当にその通りでした。私はビザが切れる2年を一つの区切りとして考えていました。たまたま、2年目の夏に日本のとあるポスト(研究費+自分の給与3年分)を獲得することに成功したため、私は迷うことなく予定通り2年で帰国することにしました。

帰国して日本のアカデミアで働く

アメリカから帰国後、国内の研究機関で働くことになりました。その後、20年にわたってこの研究機関の中で任期付きを渡り歩くことになります。この研究機関に赴任した際にボスから最初に言われたことは、「最低、朝9時から夜9時まで働くように」。今では法に触れるような発言ですが、最低このくらい頑張らないと日本のアカデミアでは勝ち残れないということだったと思います。もともと日本にいたときから夜11~12時というのは日常だったのと、若く、独身だったということもあって、当初はそれほど苦痛ではありませんでした。ただ、この研究機関への赴任はそれまでとまったく違う分野だったため、すべてを一人で解決しなければなりませんでした。また、この時のボスは私の専門分野をほとんど理解していなかったため、当初は研究課題すら見出すこともできませんでした。結局、入所から4年間は試行錯誤が続きました。それまで成果を出すことにそれほど難しさを感じたことはなかったのですが、孤独で研究をすることがどれだけ大変なことか改めて痛感させられました。

このラボには、外国人が大勢いました。ヨーロッパ出身者が多かったせいか、アメリカ時代と違ってよくお酒を飲みにいきました。お酒を飲みながら英語というのは意外とよいトレーニングになります。全く英語ができなかった若手のスタッフも、片言の英語でなんとか会話をするようになり、気が付くとラボの中でも英語でやり取りをしていました。対面の英会話スクールもいいのですが、プライベート感覚で気楽に話ができる場、というのが一番いいかもしれません。

日本アカデミアの個人主義

もう一つ、私にとって予想外の状況が日本で待っていました。日本のアカデミアはアメリカ以上に個人主義であって、それまでのように同僚は仲間として支えあうという考えはなく、隣に座る人はすべてライバル、という考え方にかわっていました。それまで同僚らとの間に築いてきた仲間意識というものは完全に失われていました。このことは若かった私にもさすがに応えました。この当時の健康診断で”心のチェック”という項目があったのですが、ボスとのディスカッションでイライラしていた直後に検査をしたこともあり、研究機関内で最低のスコアだったそうです。

この研究機関で働き始めてから、同僚たちの中でも心を閉ざす人が急増しました。挨拶をしない人や仕事中にイヤホンをしている人、お昼も一人で食べている人など、人との関わりを断って孤立する人が増えました。中には風邪をひいてしばらく休んでいたら、そのまま1年以上も出勤しなくなり、そのまま退職してしまった同僚もいました。若手のラボメンバーを攻撃するようになり、その後、事件に発展してしまったこともありました。ラボ内でも様々なトラブルが発生し、自分の身は自分自身で守るようにと指示が出るくらい酷い環境でした。

今のアカデミアの現状

今考えると、確かに日本のアカデミアもこのころからおかしくなってきましたように思います。任期制の導入によって定年退職のルールがなくなりました。ボスたちは70歳過ぎて定年退職せず、何らかの形でトップの座にいたため、人事が頭打ちになりました。そのため、すでに権力を持っていたボスたちはより一層力をつけていきました。一方、激しい競争の下で数年ごとに研究環境を変えなければならない若手研究者の多くは自分の研究テーマを維持できず、またいつまでも下っ端働きが続き、ますます衰退していきました。給与も低水準(退職金、ボーナスは当然なし)。それでも職があるだけでよいほうなので、そのなかで必死に働いていました。

国のアカデミア向けの予算もこのころから減少しはじめました。ラボを運営するための予算も年々減少するために、研究者個人レベルでも予算を獲得しなければならなくなりました。その採択率は2~3割。予算を獲れなかった場合には悲惨な状況に陥ります。当然ながら人件費も減っているためこのころから給与は横ばい、場合によっては任期をきられて退職を迫られるケースもありました。

このころの私はまだ運が良かったのだと思います。帰国の際に飛び込んだ異分野が国家レベルで大きく注目されるようになったため、研究機関内で新たなプロジェクトが開始されることになりました。そこで橋渡し役の研究者として新たに採用されることになりました。これが帰国から6年目の出来事です。ただ、この新しいプロジェクトが始まる前には日本最大規模のプロジェクトが動いていました。この大プロジェクトが終了する際には数百人という研究者が解雇されたのですが、私はその生き残り組と一緒に仕事をすることになりました。彼らからすると、直近で大勢やめさせておいてなぜ新たな人を雇うんだ、という気持ちがあり、当然ながら私はウエルカムというわけではなく、今までにない冷たい対応で迎えられました。ただ、私にとっては、次のポストが確保できて大変ラッキーでした。

その後、私はここで10年ほど勤務しました。やはり、個人主義という考え方は変わらず、お互いはライバルでした。先の研究機関では、定期的に忘年会や新歓、送迎会というものがありましたが、この研究所ではほとんどありませんでした。あまりにも巨大な組織で、入所して数か月ほどはボスと直接話をする機会もありませんでした。ただ、設備はしっかり整っていたので、やる気になれば成果が出せる環境でした。10年間で、誌上発表や科研費獲得も何度かでき、大型プロジェクトも担当するなど、10~20年前であれば十分に評価してもらえるような研究成果を得ることができました。

無期雇用転換ルール

2018年、国の政策で無期雇用転換ルールが適用されました。無期雇用転換ルールとは、「企業との間で、有期(任期付き)労働契約が5年を超えて更新された場合、期間の定めのない労働契約(無期労働契約)に転換されるルール」です。つまり、任期のない正社員に転換できるというルールです。これは労働者を守るために制定されたものでした研究所勤続5年で、任期制研究員を無期雇用に転換しなければならなくなりました。そこで、研究所は該当する研究者の契約の打ち切りをはじめました。つまり雇止めです。必然的に勤続10年を経過すると退職させられることになりました。

別のアカデミアポストを探そうと思っても求人は頭打ち状態。准教授や教授のポストの公募の倍率は200~400倍。もはやトップジャーナルを持っていてもポストを獲得するのは難しい状況です。何十通と書類を送っても、書類審査を通過するものはありません。結局、私もアカデミアの研究生活を離れ、民間企業への転職を余儀なくされました。かつて夢を抱いて渡米し、馬車馬のように働いてきましたが、その夢を実現させることはできませんでした。

最後に

私が学生のころは、夢のある古き良きアカデミアでした。皆で協力して、一つの目標に向かって研究をすすめ、良い成果がでたら皆で喜びました。現在のアカデミアのラボの同僚はすべてライバル、同僚が成果を出すと、すごく悔しいし、焦りました。次の契約更改で、成果のある同僚が選ばれ、自分は解雇されるのでは、と常におびえていました。
ただ、こういった世界の中で勝ち抜いた研究者が本物なのかもしれません。

結局、私はベンチャー企業へ転職しました(関連記事はこちら)。40代後半での転職です。アカデミアには未練がありますが、アカデミアで生き残るだけが人生ではない、と自分に言い聞かせて日々を過ごしています。最近、50歳直前でさらにもう一回転職しました。新天地でどれだけ活躍できるか未知数ですが、これもアカデミア出身者の一つの生き方ではないかと思います。この歳でまた夢中になれるような研究ができることを夢見てがんばろうと思います。

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