こちらの記事の続きになります。
現在の肩書は専業主夫
専業主夫になって一年が経過しました。
早かったのか長かったのかわかりませんが、一日一日を悩み、苦しみ、楽しみながら過ごしてきました。
ただ、苦労して博士まで取ったのに主夫をしている自分がなさけないと思うことがあります。
私が主夫、ということを知っている親族や友人も、きっともったいないと思っていることでしょう。
学位取得してから渡米、帰国して研究機関で勤務、そして体調を崩し始めるまでは、前のブログで書かせていただきましたので、その後、主夫になるまでを書かせていただきます。
研究機関勤務時代
私はかなり厳しいアカデミアの研究機関にいました。
この研究機関は5年の任期制の割には給与がかなり安く、成果主義、学閥、同僚や上司の人間性の低さなどに耐えかねて、常識ある仲間たちはそうそうに民間企業に就職していきました。
そんな中、私はホームランは打てなかったものの、シングルヒット程度の成果は打つことができました。
そして、それなりの論文を毎年出していました(総論文数30本)。
科研費や外部予算も継続的に獲得していました。
そのため、任期制にもかかわらず、同じ研究機関に20年以上も在籍することができました。
ただ、国の法改正で非正規雇用者を一定年数雇用していた場合には正規雇用に移行しなければならない、という法律が施行されてから、状況は一変しまいた。
私の在籍していた研究機関では、10年勤続を上限として雇止めが行われるようになりました。
私も任期いっぱいで退職をしなければならなくなりました。
当然、アカデミアの職を続けたいと考えていたので、大学や別の研究機関へのポストを探しました。
しかし、募集は各一人。
それに対して数百人が応募するような状況でした。
私は大きなプロジェクトに関わっていたこともあり、研究より業務(論文にならない研究)を多くこなしていました。
全く業務を行わなず自分の研究だけに集中する研究者が多い中、私はプロジェクトの使命を感じ、懸命に業務をこなしました。
そうすると、論文を出した研究者と私のような業務を行っている研究者と比較されれてしまうと、どうにもなりませんでした。内部でも外部の評価でも大きな差が生じました。
特に外部の公募に対しては全く通用しませんでした。
実際、何十通という履歴書を日本各地の大学の公募へ送りましたが、全く歯が立ちませんでした。
現状をボスに訴えましたが、「お金をもらっているんだ、しっかりやるように」という感じで取り合ってもらえませんでした。
また、当時在籍していたチームでは、激しいハラスメントがありました。
要は足の引っ張り合い。
施設やPCを使わせてくれなかったり、陰口をたたいたり、情報を共有してくれなかったり、データの中をのぞかれたりといったことが日常でした。
ボスも状況を知っていたにもかかわらず、見て見ぬふりをしていました。
とにかく人の不幸が好物で、他人の失敗は喜ぶ人たちでした。
一緒に仕事をするのは正直限界でした。
私は外部予算をずいぶんともっていましたし、大きな成果も得られつつある段階でした。
しかし、任期が切れてしまうことに対する不安、そして人間性に低い集団によるハラスメントに耐えかねて、私はこの研究機関を離れる決心をしました。
ベンチャーへの転職
民間企業への転職活動も難航しました。
アカデミア出身者は使えない、というのが定着していたことと、年齢も管理職クラスに近づいていたこともあって、ほとんどの応募が書類で落とされました。
ところが、とあるベンチャーが私を拾ってくれました。
私のバックグランドをもとに新規事業を行いたい、ということで、お互いのニーズが一致しました。
当時、私も良い縁だと思いました。
給与もずいぶんと上がるし、肩書もつく、プロジェクトも任せてもらえる、ということでやりがいを感じました。
そこで私は20年働いたアカデミアに区切りをつけることにしました。
ベンチャーの現状
ベンチャーに転職して感じたのは、研究機関のチームのように人間性の低い人たちはいませんでした。
むしろ、あのアカデミアにはなんであんな人間が集まっていたんだろう、と不思議にかんじるほどでした。
なので、当初は良い仕事ができると、内心喜んでいました。
ところが、入社してしばらくすると、社長から「新規事業は行うつもりはない」と言われました。
何をいっているんだろう?という感じでしたが、部長にも確認すると「アイデアは温めておいてくれ」ということでした。
愕然としました。
私は仕方なく派遣社員と同じ雑用をやるようになりました。
さらに実際に現場で働いてみると、個々のスタッフは異常なまでに疲弊していました。
チームは10名ちょっといたのですが、その部署で一年以上働いていたのが3人だけ。
実際には離職者が異常に多い部署でした。
業務は、ホワイトボードに時間単位ですし詰め状態&いれこ状態で管理されていました。
裁量労働制、ということでしたが、スタッフに裁量などはありませんでした。
残業も社内で断トツでした。
仕事の手順も、異常なまでに細かいルールが存在していました。
皆が「お局」と呼んでいた方が毎週のようにルールを追加していきました。
そのために実際の作業より、そのルールを守るための作業がスタッフを圧迫していました。
私はいままで20年間同じ目的の仕事をしてきたのですが、あまりにも細かいルールをみにつけ、さらに時間内にこなさなければならず、そのプレッシャーに負けてしまいました。
実は、このころ、アカデミアを辞めたことをかなり後悔していました。
やめる前日まで解析は続けていたのですが、退職3日前にホームラン級成果が得られたことがわかりました。それはトップジャーナル級の成果でした。
退職を取り消すことも選択肢としてあったのですが、ハラスメントや雇止めのことが頭にあり、家族のためには安定した仕事のほうがよいだろうと、この成果のことはあきらめました。
ただ、心の中では悔しい思いでいっぱいで、正直、現在でも心の中に強く残っています。
赴任して一か月経過すると、徐々に体調に異変が起こり始めました。
作業中にめまいがしたり、お昼に震えや急に涙がでてきたりして、家内に涙して電話したこともありました。
このころから、正直「死にたい」と思うようになりました。
ただ、子供たちのことが頭にありました。
私は前職も裁量労働で車通勤だったこともあって子育てには積極的にかかわってきました。
上の子も下の子も保育園の送りは私が必ず行き、迎えも半分は行くようにしていました。
子供がインフルになったときには家内と折半して看病しました。
子供が発熱や怪我をして呼び出された時には、私が車ですぐに帰宅して病院につれていきました。
0歳のころから私がよく病院に連れて行っていたので、かかりつけの病院の先生やスタッフも私のことを覚えてくれていました。
子供たちのことを考えると、このままじゃダメだ、と思う気持ちになりました。
そこで、ひとまず産業医の先生に相談することにしました。
症状や感じていることを正直に告げると、うつ症状、と診断をうけました。
仕事を続けるのは難しいのでしばらく休職するようにとのことでした。
その翌日から出勤はしませんでした。
会社のデスクの上のものもそのまま。
別の心療内科の先生に診断がゆだねられたのですが、半年経過しても出勤許可はでませんでした。
結局、会社の規定でこのまま退職することになりました。
博士の専業主夫業
休職当時はまだ下の子が保育園でした。
朝、ご飯の準備をして、子供たちを食べさせて、それから保育園まで送り、夕方には迎えに行かなければなりませんでした。
そんな中、抗うつ薬の治療が本格化しました。
きつい副作用との闘いが始まりました。
私の場合、抗うつ薬による”だるさ”や”眠け”がひどかったので、とりわけ朝のルーチンがとにかくつらかったです。
医師からは、朝のルーチンがうつ治療の妨げになっている、と言われました。
しかし、家内もフルタイムで働いているので任せるのは申し訳なく、死に物狂いでがんばりました。
子供を送り届けると、そのままソファーに倒れこんでお昼ごろまで意識を失うこともよくありました。
ある日、夕方まで床で倒れていて、帰宅した小学生の長男に起こされたこともありました。
10種類ほどの抗うつ薬を試しても良いものが見つからなかったので、以前に飲んだときに効果は実感できなかったけれど、眠気も全くなかったサインバルタを復活させてみることにしました。
幸い、この薬では、副作用が全くありませんでした。
朝のルーチンも徐々に無理なくこなせるようになりました。
ここからがようやく主夫業のはじまり、といったところでしょうか。
ようやく主夫らしい生活をこなせるようになってきました。
朝7時前に起きて朝ごはんを準備し、子供たちを起こしてご飯を食べさせ、学校に送りだしたら、洗い物、洗濯、掃除をする、というのがルーチンになっていました。
休職して4~5か月ごろまでは、日中は横になってテレビをみていることが多かったのですが、その後switchをやるようになりました。
朝からアドレナリンがでるようになり、ゲームにはまったことのない私にとってはちょっと意外でした。
2か月ほどswitchにはまった後は、ブログとアフィリエイトをやるようになりました。
文章を書くことはよいリハビリになると思い、さらに収益を得られるようになれば精神的な安定につながると思いました。
現在では、医師のすすめで社会生活のリハビリとして、9時ごろまでにはコメダやスタバにいって13~14時ごろまでブログを書いて過ごすようにしています。
現在の目標は主夫兼アフィリエイター、という肩書でしょうか。
午後は子供たちが帰ってくるので、おやつや宿題の対応や習い事の送り迎えをして、洗濯ものをたたみ、風呂掃除、ご飯を炊く、買い物、子供のお風呂いれといったことをしています。
途中で犬を飼い始めたので、しつけやトイレ、夜泣きの対応も私がしています。
家内が残業等で遅くなる場合には、晩御飯の準備もすることもあります。
他の主夫の方のように完璧な家事をこなすまでには至っていないと思いますが、私なりに病気の治療と主夫を両立させられるように努力しています。
特にコロナの影響で、学校が休校になったり、学校内でコロナがでてしまったときや、父親が病で倒れてしまったときには、主夫をしているときでよかった、家族の役にたったと感じました。
ただ、家族全員がこのように感じてくれているかはわかりません。
家内は働いているので、自宅で休養している私に不満があるのではないでしょうか。
また家族の将来についても子供たちに対してもあまり悪い影響を与えると考えているかもしれません。
コロナ禍も重なったことあり、私の就活は難航しています。
最近は障害者枠への応募も検討をしていて、選択肢、間口を広げるように努力しています。
収入面でも自分の治療を優先させるべきなのか、無理をしてでも就職をするのか、難しいです。
実はこの記事を書いている最中に、学校から子供の腕が折れたとの連絡がありました。
学校に駆け付けると、子供はすでに救急車に乗せられていて、救急隊員が病院を探しているところでした。
腕を覗き込むと手首と肘の間が折れているのがわかりました。
子供の顔は青ざめていましたが、意識はしっかりしていました。
そのまま一緒に救急車に乗って病院に行き、レントゲンと骨折の施術(子供は悲鳴をあげていました、、、)をしてもらいました。
今後、手術するかどうかは容態次第のようです。
でも、こういうときに子供のすぐに駆け付けてそばにいてあげられたことは、主夫をやっていたおかげ、と思いました。
その後のうつ病闘病生活と専業主婦独り言はこちら。
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